私が世界だ

アイドルと、私

彼の”嫌いじゃない”女子高生が終わる

 

突然だが、私はNEWSの加藤シゲアキくんを定期的に摂取しないと生きていけないしがないオタクだ。俗に言うシゲ担である。

 

このブログで自分のアイドルに対する思いをしたためようとしたきっかけは、私が女子高校生でいられる期間が、もうあと二ヶ月もしないうちに終わってしまうためである。

 

私が好きなアイドルは、とある番組取材でのやっぱり女子高校生が好きか、という質問に対し、バカヤロウとまんざらでもない顔で答えたその後、まぁでも嫌いじゃない、とニヤケながら言い放ち、インタビューのオチをつけた。

番組のために冗談で言ってるということくらいわかってはいるが、彼の”嫌いじゃない”ものに今現在進行形でなっていられる事実がこの上なく私のJK心を鼓舞させた。自分ながら、単純なファンである。

 

しかしその事実もあと二ヶ月弱で跡形もなく消え去り、私は大学生になる。

それはつまり、彼の”嫌いじゃない”ものではなくなってしまうのだ。

 

世の中のアイドルは十中八九「ファンの皆が大切だ」とコンサート会場で叫ぶし、雑誌のインタビューでもそう述べる。それは私の推しもそうである。

私の好きな彼の場合、とあるライブでファンに対し「愛してるんだよね?」と聞いた後「バカヤロウ、俺の方が愛してるよ!」と、とんでもなくアイドルらしいセリフを吐くという(私の中での)事件を起こしたのだが、私はその時喜んだと同時にどうしようもなく虚しくなった。

 

愛してるよ、愛してるよ、愛してるよ

頭の中で彼の声のまま再生される愛してるよ、は、私をたくさん寂しくさせる。

 

ファンに対し放った言葉は、ファンに対する言葉でしかないのだ。私個人に対して、愛してるぜ!と言っているわけではない。

私もアイドルに対して「好き!」と叫ぶが、恋愛的な好き!ではなく、一人間として好き!という意味での好きである。要はLIKEの好き。偶像に対する崇拝である。だから愛してるよ、に対して恋愛的な要素は全く求めていない、求めていないのだが...。

 

彼はファンという名の、きゃー!と奇声を鳴らす集合物質に対して愛を叫んでいる。

私はその集合物質を構成している一匹の細胞みたいなもので、彼の瞳に小さな”私”はきっと一度たりとも映ったことはないと思う。彼は私を認知せずに愛してると叫んでいるのだ。

そう考えるとどことなく心の隅に寂しさと虚しさが芽生える。

こんなに私は彼を見て、愛を叫び、映像越しに姿を見るだけで泣けるのに、彼の人生に”私”は一度も登場しない。

仮に彼と道端で会って声をかける時も、まず一言目に私は「貴方のファンです」を名乗るだろう。名乗る、という表現をしたが、実際名乗ってすらいない。自分の身分を本人に告げただけである。私の本名を彼に告げたところで、はぁ、えーと、どちら様ですか、と返されるのがオチである。物悲しい。

 

だから私は彼の具体的な(それでも集団物質的要素は拭えないが)女子高校生という”嫌いじゃない”物体になれていることがどうしようもなく嬉しいのだ。

彼が見てくれている、という錯覚を、女子高生という具体性が見させるのだ。虚しい、虚しいけどそれ以上に錯覚するのは楽しいよ。

 

私は今女子高校生だ。でも、もうじき終わる。女子高生ファンという具体さを脱ぎ捨てて、一介のファンという集合物質となる。

 

言葉下手で、予備校講師に小論文を見せた際、「留学生が書いた文章かと思った(留学生の方に対してなかなか失礼な発言であるが)」と言われるほど言葉を文章として書き起こすことが苦手な私ではあるが、自分の今現在の感情を大切にしているが故に、思ったこと、考えたことを残しておきたいと思っている。

将来の私が、女子高生、そして今の私にとっての小さな未来の大学生時代の気持ちを閲覧できるのは、きっと大人になった将来の私も嬉しいはずだ。

 

未来のことは全く予想もつかないので、この先どのくらいの長さ、熱量で加藤シゲアキくんを推していけるかは計り知れないのだけれども、加藤シゲアキくんが好きな今のこの感情を、好きなだけここに記しておきたい。

 

まずはとりあえず

 

シゲアキ、愛してるぜ!

 

という気持ちを書いておきます。